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無料山本文子著安倍は百済人恐ろしかった大日本帝国山本奈実編大日本帝国復活―百済人の野望!

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安倍は百済人 日中戦争をひきおこした近衛文麿
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墓標は語る
隠された日本の歴史
秘密保護法反対運動の地域差から気づいたこと
大日本帝国復活―百済人の野望
天皇制の黒幕に追われて
恐ろしかった大日本帝国
なんと明治十年から始まって四十三年まで毎年切れ目なく多数の戦死者が続いているではないか。なぜ? 
「日本の大学教授には、韓国や朝鮮系の血筋の人がかなりいますよ」
山口県(長州)の田布施という朝鮮人集落の出身者が主となり、鹿児島県(薩摩)の朝鮮人集落出身者がこれを援けて明治維新を起こしたのだった。

伊藤博文が中心となって立ちあげた明治政府
百済人は、日本の先住民族を追い出した

大日本帝国の残忍さは特攻兵器にはっきりと顕われている。片道燃料だけで基地を飛び立って行き、敵に体当たりして兵器もろとも自爆する、という世界に二つと例のない残酷極まりない戦術を、百済人は創り出した。それに乗って自爆していったのは土着日本人だ。

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山本文子著 山本奈実編『大日本帝国復活―百済人の野望』: 文映こと ...
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山本文子著 山本奈実編 『大日本帝国復活―百済人の野望』は次のURLから全文読むことができます。 http://bunei999.cocolog-nifty.com/blog/dainihonteikoku.html. (二〇一六年 三月二十七日). 『大日本帝国復活―百済人の野望』(『墓標は語る』第二弾)( ...

戦争の原因糾明こそ不戦につながるのだ
墓標は語る
山 本 文 子
戦争を起こさないために
戦争を起こさないためには、あの戦争がなぜ起こったかに焦点を当てて考えてみる必要がある。原因を知ることによって、初めて戦争を食い止める具体的な知恵が出てくるのだ。これまで戦争の原因はひた隠しにされてきた。なぜ隠すか。ここに深いそして重大な意味が秘められている。戦争を食い止めたい人たちに、ぜひとも読んで、そして考えて頂きたい書である。

 そもそも私は文学への関心がそれほど高かったわけではないし、自分が本を作るなど考えたこともなかった。なのに、末娘との二人の暮らしの中に霊現象が続出し始めたため、人々に伝えたい一心から次々と体験記を書いているうちに、つい何冊かの本作りにまで発展した。霊現象は明らかに先祖からのメッセージだった。私と末娘の後ろには清和源氏の一族であった先祖の霊が控えていて、常に二人を守り、導いてくれたのだ。導かれて学んだ歴史。そこには長期に亘って藤原氏の謀略に苦しめられ続けた先祖の姿があった。そうと知って、私は本当に驚いた。パワーを貰い、知恵を貰うからこそ、こういう形の本になった。霊が守っていてくれる、と思うから書くことができた。それがなかったなら、「皇室タブー」の背後にいる策略家を恐れて、私の筆は進まなかったであろう。

 神道だけはキリスト教や仏教とまるで違うということだった。神道には教祖がいない。経典がない。あるのは神話だけ。日本古来の神との繋がりを強調しているけれど、これは全部作り話だった。明治維新によって誕生した大日本帝国が造り上げた新しい宗教であり、そして軍国主義の生みの親になったのが神道(核は靖国神社)である。まさに「神道恐るべし!」だ。
 あ、これだ。これが先祖からの示唆だった、と気づいた結果、この小冊子が生まれたのである。
(二〇一四年 七月二十七日)
 
墓標は語る 目次
戦争を起こさないために
第1部
ご挨拶
墓標は語る
大和民族は二重の被害者だった
蟻んこの独り言
第2部
手づくり小冊子配布
思想スパイ
靖国参拝から見えてくるもの
国家公務員採用方式への疑問
恐ろしかった大日本帝国
世界一 平和な日本を
    第1部
ご 挨 拶
「秘密保護法」成立。本当に恐ろしい日本になりました。
あれは、政界のトップ自身が知られたら困る大きな秘密を抱えているがために生まれた発想ではないでしょうか。ひょんなことから、その秘密を知ってしまった私にはそう思えるのですが。
ご一緒に考えて頂きたくて、小冊子を作りました。
ご高覧頂ければ光栄に存じます。
二〇一三年 十二月六日             著者 山 本 文 子(84歳)

――『琅』25号(編集・発行 宗内 敦)に掲載したものを一部修正・転載
http://homepage1.nifty.com/muneuchi/rou/rou_index.htm――

墓 標 は 語 る
 私は日本の国をこよなく愛していたから、日本を悪く言われるのは不愉快だった。ところが、日本が嘘だらけの国であると知ったいまは、日本に対して腹立たしさばかりが先立つ。悪く言われて当然と思えることばかり。日本は先進国の中で一番嘘の多い国かも知れないと思う辛さ。そう思わせるきっかけとなったのは墓標だった。その経緯をできる限り詳しく正直に書いてみたい。

墓地の移転
 夫も私も春日井出身のため、これまで夫の墓は春日井にあった。ところが、成人した息子や娘が次々と遠隔地の関東や関西に家庭を持ったため、春日井までの墓参が容易ではなくなった。そこで思案の末、思いきって交通便のよい所へ墓を移すことにした。幾つもの候補地を見てまわった末に選んだのは、名古屋の平和公園のど真ん中にある墓地だった。バス停から徒歩三分。わきに駐車場もあるという条件が気に入った。ここなら私にとっても春日井の墓地より遥かに交通便がよくて助かる。

 墓地を移転したことによって、私の前に思いがけない運命が広がり始めた。あ、それを語る前に一つだけ説明しておきたいことがあった。夫は四男なので、春日井の生家を継いだ長兄一家が先祖代々の墓と共にニューギニアで戦死した次兄の墓を守っていた。まだ若かったときに、私はその墓参に行き、なにげなく墓標の文字に目をやって、「あっ」と思った。なんと次兄の戦死した月日は私の長女の誕生日だったのである。三百六十五分の一の偶然とは珍しいな、と思っただけで、その時はそれ以上のことは何も考えなかった。それがいまになって大きな意味あることとして私の意識にのぼり始めたのである。

バス停横に戦没者墓地
 名古屋平和公園墓地への交通便の良さが嬉しくて、私の墓参がにわかに頻繁になった。とはいえ、ふだん地下鉄に慣れきった身にはバスの待ち時間がいささか退屈ではあった。周囲は右も左も見渡す限り、墓の行列だ。高台になっていて緑も多く、まるで墓の団地といった風情である。

 帰りのバスを待つ間、私はベンチに腰かけて、あちこちを眺めまわしたり、立って行って墓地を囲んでいる柵によりかかって、柵の近くに立つ墓標の文字に目を凝らしてみたりした。

 柵に近い位置の墓地は、ちょっと周辺のそれとは異なっていた。幼児ほどの背丈の小ぶりな柱が、これも小ぶりの四角いコンクリート台の上にちょこんと立っている、という粗末な墓標が整然と五百基ほど並んでいる。脇に「戦没者墓地」の表示があるがその姿には、まるで高級住宅地の隅っこにある貧民街を連想させる侘びしさが漂っていた。

 或る日、墓参帰りのバスを待ちながら例によって柵に寄りかかって漫然と小さな墓標を眺めていた私はそこに「大正」の文字があるのに気づいた。「えっ、大正? ここは戦死者の墓地でしょ。どうして大正なの? 大正時代に戦争など無かった筈なのに」 好奇心が頭をもたげてきた私は、柵に沿って入り口へまわり、初めて戦没者墓地へ足を踏み入れてみた。

 小さな墓標が集団になって立っているところから少し離れた位置には、対照的にでっかくて一基が畳一枚くらいの大きさで、趣のある形に変化させた立派な碑が数十基並んで建っている。土地も庭先ほどの余裕を持たせた面積を占めていた。確認するまでもなく、それは位の高い軍人の碑であり、当然ながらこちらの小墓標は兵士たちに違いない。人間社会の格付けがこんな形で墓にまで持ち込まれていることに、私は義憤を覚えた。かつて戦時中に見慣れていた軍服姿の若い兵士たちの姿が、忽然と脳裏に蘇ってきた。

 この人たちは一体、いつ、どこの戦争で亡くなったのだろう。私はどうしても知りたい。苔むして読み取れない文字を指でなぞったりして調べてみると、意外にもほとんどが明治らしい。しかも十年、十一年、十二年とのべつ幕なしなのが不思議である。このままでは終われない心境になってしまった私は、五百基はある墓標の戦没年月をぜんぶ調べてみよう、と思い立った。一日や二日では無理だから、出直すことにした。筆記具も必要だ。暑くも寒くもなしの好天の日を選び私は数回足を運んで、墓標を順番に一つ一つ念入りに調べていった。折れて頭のなくなったものや、苔に覆われてしまってどうしても読み取れないものもあって、結局、五百三基のうち、戦没年月の読み取れたのは三百八十五基であった。

墓標から謎が生まれた
 調べ終わった結果を表にまとめた。ひと目で分かる形のグラフにしてみたところ、なんと、明治十年から始まって、四十三年まで毎年切れ目なく多数の戦死者が続いているではないか。なぜ? どうして? おかしいではないか。

 明治時代といえば、二十七、八年の日清戦争と、三十七、八年の日露戦争しか知らなかった私としては意外でならない。この二つの戦争の分は除いて考えることにしよう。この墓地に立つ墓標は昭和八年を最後としており、明治、大正、昭和初期までという限られた期間の戦没者であるが、明治四十三年を境にしていっぺんに戦没者が減ったことには何か意味があるのではないか。考え巡らせて浮かんだのが伊藤博文がこの頃に暗殺されたことだった。伊藤博文の死

墓標の没年月判明分385基を分類

亡が、日本の歴史の流れを変えたのか。彼はそれほどに大きな存在だったのだろうか。私は彼を追ってみようと思い立った。

 古書店で見つけ出したのが斉藤充功著『伊藤博文を撃った男』であった。まず、表紙の左上には撃った男、安重根の写真が、右上には伊藤博文の写真が載っている。それを見比べてみた。「目は口ほどにものを言う」と言われるが、犯罪者の確認はその目を見るのが一番だと私は信じていた。見れば見るほど安重根の目は澄みきっている。それに対して伊藤博文の目には複雑極まりない翳りがある。安重根は根っからの正義漢だな、と私は直感した。本の内容を読み進むに従って、その確信がいっそう強まっていった。非は伊藤博文にあることを、この本は暗に示してくれていた。

問題は明治維新にあった

 伊藤博文が中心となって立ちあげた明治政府であり、大日本帝国だ。それは明治維新によって誕生した国家である。となると、明治維新に注目する必要がある。私は明治維新について調べてみる気になった。

 新古書店やインターネットで、明治維新に関する本を探しまわった。そしたら、あるわ、あるわ、明治維新の偽りを暴く書がぞくぞくと・・・・。

 最初に手にしたのは、一九九七年に初版が刊行された鹿島曻の書『増補版 裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』だった。孝明天皇と睦仁親王が暗殺され、別人・大室寅之祐が睦仁親王の替え玉として明治天皇となった、という思いがけない真相が暴露されていた。この書のために著者は暗殺されたそうである。

 となると、書かれたことは事実に違いないし、想像を超える悪質な犯罪組織の存在が臭ってくる。出版社を乗っ取られ、再出版を阻まれた状態にあったのち、著者の友人・太田龍氏が奮起して二〇〇七年、本書の再出版を実現させた。効あって、明治維新の真相が世に知られ始めた。鹿島曻の書の内容の信頼性を高める種類の書が複数の人々によって次々と刊行されるようになった。それらを照合しながら読み進むに従って、私にはかなりのものが見えてきた。真っ先に思ったのは、明治維新がなかったならば、日本は戦争を起こすような国にはならなかった、ということである。

 明治維新という犯罪の成就は、大日本帝国という殺人国家を誕生させてしまった。明治から昭和敗戦までの大日本帝国の足跡を辿ってみれば一目瞭然である。戦没者墓地の墓標から生まれた私の謎が、解けるところまではいかないが、明治政府にはまるで殺人鬼のような面があったことを初めて知った。台湾征討、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、済南事変、満州事変、支那事変、太平洋戦争。明治から昭和敗戦までわずか七十年ほどの間にこれだけの戦いを繰り返して、国民に多大の辛苦を舐めさせてきたのだ。さすが天皇を暗殺してすり替えるという大罪を犯して立ち上げた政府だけのことはある、と言えよう。

百済人が天下を取った明治維新
 明治維新にはさらなる秘密が潜んでいた。首謀者集団は土着民族ではなかったのだ。山口県(長州)の田布施という朝鮮人集落の出身者が主となり、鹿児島県(薩摩)の朝鮮人集落出身者がこれを援けて明治維新を起こしたのだった。すり替わって明治天皇となった大室寅之祐及び、安倍晋三首相の祖父・岸信介元首相、大叔父の佐藤栄作元首相も共に、山口県田布施の出身者だったのである(THINKER『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』参照)。私は血筋がいけない、などと言うつもりはない。帰化人であろうとなかろうと、同じ人間同士、上下などありはしない。血筋がいけないのではなく、血筋をごまかす精神がいけないのだ。百済系朝鮮民族の血筋を神の子孫だと偽って、日本国民をかしずかせた、その嘘つき精神に対して怒らずにおれないのだ。こうなると、歴史認識についても、中国や韓国側の言い分が正しいかも知れない、と思えてくる。更に広がって領土問題だって、どちらが正しいやら、と思えてきてしまうではないか。自分の国を信じられなくなる、とは何とも哀しいことだ。日本国家は、今からでも真実ありのまますべてを国民に告白すべきであろう。

彼ら百済人はどこから来たか
 朝鮮人集落がどうしてできたか、については朝鮮半島の百済の国が滅びたときまで遡らねばならない。植民地支配の時代にもかなりの数の朝鮮人が日本へ渡ってきて定着した。帰化もした。しかし、支配層となったのは彼らとは別の時代に来日した集団だと考えた方が確かであろう。

 遥か昔の六六〇年頃、朝鮮半島の百済の国が新羅と唐によって滅ぼされたとき、王子を核とする一万人近い百済人が集団となって日本へ亡命してきた。日本の天皇は彼らを温かく迎え入れて、複数の者に官職を与え、近江の広大な土地を与えて彼らを住まわせた。まるで第二の百済国のようだったと言われている。その後、日本各地に朝鮮人集落が点在するようになった。ここで加えたいのは、あのルーツ不明とされていた藤原鎌足こそ、百済から亡命した王子豊璋その人だったことだ(関裕二『藤原氏の正体』参照)。素性を隠したまま、その一族は巧みに日本の支配者になりおおせてしまったのである。王子豊璋という人間の悪どさを受け継いだ一部の子孫が日本にもたらした害毒は、測り知れない大きなものとなった。

大日本帝国と北朝鮮
 実によく似ている二つの国。大日本帝国時代を生きた者にだけ分かることだが、大日本帝国がそのまま復活して北朝鮮になったのではないか、と錯覚するくらいにこの二つの国はそっくりである。二つの国の支配者が同じ民族・百済人だというのは、間違いない事実だと思う。この二つの国こそ、戦争好き百済人にとっての理想国家なのかも知れない。多分、そうであろう。韓国の元大統領金大中が百済人だとの説も頷ける。彼は日本へ亡命して身を隠していた時期があったが、受け入れた日本にも百済人がいることに意味を感じる。金大中が北朝鮮のボス・金正日とにこやかに抱き合った姿は印象深かった。小泉元首相も金正日と握手を交わした。互いの表情はちょっと硬かったけれども。小泉元首相の父祖も鹿児島県の田布施(山口県の朝鮮人集落と同名)という朝鮮人集落出身である。北朝鮮のボスが自ら会い、握手を交わす相手はだいたい百済人であることが多い、と聞く。それだけ血に対するこだわりが強いのだと考えられる。世襲制というのも、血族尊重の表われだ。日本も北朝鮮も共に百済人を世襲制によってトップに頂いている点が共通しているのは興味深い。これは注目すべき非常に重要な事実である。

 加えて問題にしたいのは、植民地支配時代の日本政府のあり方だ。朝鮮北部と朝鮮南部に対する対応が違っていた。その理由が問題だ。政府は朝鮮北部の整備に非常に力を入れた。その証拠に植民地支配時代に、技術者や研究者及び資金の多くを朝鮮北部へ送り込んだ。まったく何もない所へ家、橋、鉄道など、様々な建造物をつくったと書でも読んだが、赴任した技術者の夫人から直接聞いたことがある。それに較べて朝鮮南部に対しては冷淡で、逆に搾り取った。日本本土からも搾り取った。この不均等の原因はどこにあるか。日本と朝鮮を支配していたのは、日本人であったが、どうやら血筋だけでなく、その精神までが百済人であったらしい。自らの祖国・百済の地または住民を優遇したということではなかったか。

百済人は、日本の先住民族を追い出した
私の猜疑心は膨れ上がっていく。
 日本政府は国民を捨てた。「ブラジル移民も満蒙開拓団も移民ではなくて、棄民だった」と住井すゑは『住井すゑ対話集3』の中で語ったが、私も同感である。日本の人口が過剰だと言って荒地へ追い出し、辛苦を舐めさせた。敗戦になったとき、どれだけ多くの人が日本へ帰れないまま満蒙の地で苦しみながら亡くなったことか。私は星亮一著『満州歴史街道』を泣きながら読んだ。井出孫六氏が新聞や雑誌に書かれた文から長野が特に多く満蒙開拓団員を送りだし、中国残留孤児の悲劇を生んだと知った。日本政府は人殺し国家ではないか、と心に叫ばずにはおれなかった。どんどん移民させた一方では、労働力不足を理由に朝鮮半島から沢山の人を日本へ連行した。これはおかしい。先住民を追い出して朝鮮民族によって日本の国を埋め尽くしたかったのではないか。私はそう疑っている。その疑いは現在も消えていない。日本の支配者であり続ける百済民族が私は恐ろしい。

大日本帝国は殺人国家だった

 大日本帝国の残忍さは特攻兵器にはっきりと顕われている。片道燃料だけで基地を飛び立って行き、敵に体当たりして兵器もろとも自爆する、という世界に二つと例のない残酷極まりない戦術を、百済人は創り出した。それに乗って自爆していったのは土着日本人だ。

 小学校一年の私たちが習得した教科書は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に始まって、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と明らかに軍国主義の開花であった。死んでも口からラッパを放さなかったキグチコヘイや爆弾三勇士の絵。大きな爆弾を三人の兵士が抱えて敵陣へ突っ込む。これはまさに特攻戦術そのものの姿を描いている。サイタ サイタ サクラは「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜かな」に通じる。日本人たる者は、桜のようにパッと潔く死ぬべきだ。命を惜しむな、の意味である。

 私が小学校二年のとき、支那事変が始まった。授業中に担任の小川百合先生が言われた。

「男の子たち、大きくなったら兵隊さんになって潔く死ぬのですよ。お国のために死ねますか」

 一瞬、シーンと静まり返った教室。と、一人の男の子が呟いた。

「ボク、死ぬの嫌だ」

 それに力を得たように、教室は「死ぬの嫌だ」「嫌だ」「嫌だ」「嫌だ」の大合唱になったのであった。心密かに私は思った。男に生まれなくてよかった、と。あの情景、雰囲気を私は決して忘れることができない。戦う国、戦った国は世界のあちこちに存在するだろうけれど、あれほどしつこく国民、子供にまでも死ぬことを強要する国家は大日本帝国の他にはあるまい。どう考えてもおかしい。私はこだわり続ける。

 戦没者墓地で墓標の文字をなぞっているときもこの情景と、男の子たちの大合唱を思い出して涙が滲んできた。私には、大日本帝国という国家は国民を一人でも多く殺したがっていた、としかどうしても思えないのだ。組織の中心にそういう願望を持つ権力者が潜んでいたに違いない気がする。食糧を補給できない広範囲の南方の島々へ兵士だけは次々と送り出した。作戦の拙さだと言われているが、果たしてそうだろうか。意図的に兵士を殺したがっていたのではないか。日本の軍規は捕虜になることを禁じていた。捕虜になるよりも死ね、と自決を促した。これがおかしいのだ。世界どこの国も捕虜を認めあい、互いの捕虜を交換の形で生還させていた。それを許さないのは日本だけだった。殺人国家と言わずして、何と言おう。

アジア制覇を狙った百済民族
一九四五年、日本が戦争に負けたとき、私は数え十七歳だった。大日本帝国を知るぎりぎりの世代ということになろう。
 大日本帝国は、聞くもおぞましい国であった。「忠君愛国、滅私奉公」をスローガンに私たちは辛苦ばかりを負わされた。人権無視。国民は牛馬と同じ労働力に過ぎない。小学生までが駆り出される。忘れもしない。小学校四年生の私たちは、軍馬の食糧にする干し草を夏休みの間に一人一貫目ずつ刈り集めて学校へ供出させられた。一口に一貫目というけれど、「ちわら」という草だけを探し求めて、家からかなり離れた堤防まで通い、刈った草を集めてそれを天日に干す。すると量が減ってしまう。子供の力でこの作業を続けるのは、大変なことだった。遊ぶ時間もなくなる。また、学校の授業時間に藁を持ち寄ってそれで細縄をなったこともある。

 女学校時代は学業をなげうって、工場で働き続けた。工場では月に二回の電休日があったけれども、その日は登校を義務付られていた。神である天皇の尊さをしっかりと教え込まれながら、焼け跡整理や防空壕掘りに励んだ。戦いが激しくなって工場も学校も空爆を受けて焼失し、どちらでも焼け跡整理の仕事が山積みになった。工場で働いているときに、B29による集中空爆を受けて私たちは防空壕から逃げ出して田んぼの中を泥んこになって走った。敗戦になり、工場をひきあげて戻った学校は、運動場の真ん中に大きな爆弾の穴があった。教室の窓ガラスは全部割れて飛び散ってしまい、その後片付けに追われた。教科書なく、教科担任もいない学校だから授業が成り立たなくて、学校生活は作業の連続の挙句に卒業式を迎えた。

 冷酷な支配者のもとで老若男女を問わず、日本国民の誰も彼もが苦しんだが、不幸は日本国民だけではなかった。支那大陸、朝鮮半島、南方の島々の人たち、日本の敵国となった五十一か国の人たち、合わせて五千万もの死者を出したことは、大日本帝国の恥ずべき足跡である。大日本帝国はこのようにとんでない国だった。

 にもかかわらず、反省心なくて、性懲りもなく、また戦争のできる国を目指すとは。とても正気の沙汰とは思えない。どうしたら愚かな為政者を排除することができるのか。

 日本を戦争を起こさない国に変えるためには、なぜあの戦争が起こったか、なぜ戦争を起こす国だったかを細かく、深く掘り下げて考えなければならない。

我が子たちの誕生日に意味があった
 長女の誕生日が夫の兄の戦死した日だったことは冒頭に書いたが、今になってそのことに私は意味を感じ始めた。戦死者たちの霊に導かれるように、墓標がきっかけとなった形で、次々と明治時代の歴史を調べ始めた私に、ここで忽然と蘇ったのが、義兄の祥月命日に長女が生まれたことの奇遇についてであった。あれは単なる偶然ではなく、義兄が私に訴えかけたくてこの偶然を起こしたのだろう。二十代の若さで、人生の楽しみを味わうことなく戦場に散っていった悔しさはいかほどであったか。

「俺たちをこんな目に遭わせたのは一体誰だったのか、調べてくれ。力を貸すから調べてくれ」

 と叫んでいるに違いない気がしてきたのである。

 誕生日の不思議な一致は長女に限ったことではなかった。次に生まれた息子も、その次に生まれた末娘も、因縁の深い日に生まれていたのだ。それに気づかせてくれたのは、末娘の言葉だった。

 或る日、末娘が言った。

「お母さん、お兄さんを憲法記念日に生んだのも不思議な偶然だね」

 言われてみれば確かにその通りである。正真正銘五月三日の午前零時四十分に生まれた。予定日より二日早かった。現在の私は九条を守り抜きたいとの情熱をたぎらせているので、佳き日に生まれたものよ、と思う。国民の命を軽視する支配者の下での九条の精神骨抜きはいかに危険極まりないことか。戦争を体験した世代には痛烈に感じ取れるのだ。続けて末娘が言った。

「それだけではないよ、お母さん。私の誕生日だって意味がありそう」

「えっ、どういう意味が?」

「三月七日に生まれたから『みな』にしようと思ったけれど、『みなさん』と呼ばれたとき『皆さん』とこんがらがるから『なみ』にしたって、お母さん、言っていたでしょ。ところがこの『なみ』がすごい。『なみ』だったことで、私の名前には『みなもと』が入っているのだから。お母さんの先祖は清和源氏だと聞いているけど、その源が私の名前にはある」

「あっ、そうか。貴女の姓名を漢字で書いて、下から読んでみると『みなもとやま』になるね。『みなもと』が入っているなんてすごい。それに気がついた貴女もすごい」

 この子の場合、出産予定日が来て陣痛促進剤を打ってもまったく反応なく、予定日より三週間も延びてのお産だった。もしも予定日通り二月に生まれていたならば「奈実」と命名することはまずあり得なかったと思う。それだけではない。夫の兄妹たちは姑の意思に従って、どの家庭も申し合わせたように二人ずつの子持ちである。ぶちまけて言えば、夫自身も子供は二人までと決めていた。それを子供好きの私が押し切っての末娘の誕生だった。夫の反対は生半可なものではなくて、何日も口をきいてくれないかと思うと、今度は逆にぷりぷり怒り散らす、当り散らすという抵抗を見せて、私に中絶を迫った。が、私はしぶとく堪えた。末娘をなんとしても現世に送り出そうとした先祖たちの、必死な力が私を応援してくれたに違いない。

 それほどまでにしてなぜ、先祖は末娘を現世に送り出したか。何気なく命名したのに「みなもと」だったことから推察して、ようやくそこに私は霊たちからのメッセージを読み取ることができた。

 「我がミナモトの子孫よ、どうか二人で力を合わせて明治維新の悪業や百済民族の野望を世に広めて、日本国民を百済民族の毒牙から救い出してくれ」 そう訴えているように今は思えてならない。それに応えるべく、私は老体に鞭打ちつつ、必死にこの原稿を書き進めてきた。原稿そのものは百パーセント自分だけの力で書いているというものの、パソコンへの打ち込みとか、歴史について私の無知を補うなど、助手になったり師になったりしてくれる末娘。私は大助かりである。

 ところで、余談になるが、出生を拒み続けた夫のその後の態度について一言触れておこう。オギャアと生まれたとたんに、夫は見事に豹変。反対したことなど忘れ果てたように、泣けばすっ飛んでいって抱きあげる、甘い父親になったのが意外だった。

明治維新、昭和維新、そして平成維新
二・二六事件は昭和維新とも呼ばれていた。その首謀者は明治維新同様に山口県出身者だった。平成の今また維新の会が登場。大阪、東京、名古屋と明らかに右傾組織が大都市を狙っての扇動だった。維新を名乗るからにはやっぱり、二つの維新と同列の組織が絡んでいるに違いない。つまり百済民族。思っていた以上に大きく組織化されているということかも。

 彼らの目的は明治維新でつくった大日本帝国を復活させ、日本国民を使って、百済の仇討ちを果たすことであり、アジア制覇が最終目的であろう、と私は推測する。彼らは個人ではなく、百済系朝鮮人による非常に大きな組織として隠れて存在し、常に再起の機会を狙っている。維新の会登場は私にそう感じさせた。単なる私の疑いに過ぎないのならよいが、当たっていたら恐ろしいことだ。日本国民の未来はどうなるか。

日本の国を構成する民族
 日本を構成しているのは、アイヌ人、琉球人(沖縄人)、加えて大和民族、これだけの土着民族ばかりであり、日本は単一民族だと子供の頃の私たちは教えられた。ところが、大違い。もう一つ、百済人という民族が日本の仲間だった。いや、仲間どころか、血筋をごまかした狡い支配者だった。つまり百済人という存在をひた隠しにし、大和民族になりすましていたのだ。この中で土着民族でないのは百済人だけ。彼らの先祖は六六〇年頃、朝鮮半島の百済の国が滅びた時、日本へ集団で亡命してきた一族だった。亡命、渡来というのは土着と較べものにならないほど大きなエネルギーを要する。それを乗り越えてきたからには、かなり荒っぽい活動家と考えられる。

 何人種であろうと、帰化すれば同じ日本人だ。仲良くすればいい。ところが、この氏族は支配欲の強烈さ、策略好きにおいて他に類を見ない、卑劣極まりない氏族だったのである。それが明治維新という犯罪によって、日本の国の支配者にのし上がってしまった。彼らにとっての理想は大日本帝国だった。敗戦によっていったんは民主化されようとした日本を再び引き戻して、大日本帝国再建を夢見ている彼ら。憲法九条改正、核武装が夢実現への第一歩である。

温かかった中国、アメリカ
 敗戦から七十年近くも経った今頃になって、しきりに思い出すことがある。完全に敗北した日本の国に対する、それまで敵国だった国々の態度について、だ。

 当時、私の兄は軍人として満州に配属されていた。この兄が八月十五日戦争が終わった後すぐ、九月早々に突然元気な姿で復員してきて、家族をびっくりさせた。その後の新聞記事によって知ったことだが、クリスチャンであった蒋介石総統は「仇を恩で返す」と言って、敗戦と同時に日本兵を帰還させた。中国兵たちは地団太を踏んで悔しがりながら、その指示に従った、と聞いている。

 また、占領した日本を見てアメリカの偉い人が驚きの声を挙げた。「日本人は働き過ぎだ。体が壊れる。もっと休みなさい」 それを新聞で読んで私は思わず涙をこぼした。なんと優しくて温かい言葉だろう。私の国・大日本帝国の偉い人たちは「死ね、死ね」とは言ったけれど、「体が壊れる」なんて「休め」なんて一度も言ってはくれなかった。

 ここで思うことは、中国もアメリカもその支配者は、当時の日本の支配者とは大違いに人間らしい心の温かい姿で浮かび上ってくる。冷酷だった大日本帝国が、果たして本当に正義の国だったか? 

人情家の中国、アメリカが悪だったとは、信じられないではないか。どちらが正しくてどちらが間違っていたかについて、考えさせられる。

 話のついでに加えておこう。心の温かいアメリカがつくってくれただけに、昭和憲法は戦争を食い止める大きな力になった。九条の骨子は得難い宝だと私は思っている。

地獄のような軍隊生活
 少女時代に、治療を受けに行った歯医者で軍服の兵士に出会った。小牧飛行場に内地勤務する兵士らしくて、三人揃って順番を待っていた。上官に頬を殴られて奥歯がガタガタになったための治療だと話し、耳をぶたれて聞こえなくなった兵に較べればマシだと言った。小学生の私たちですら先生からぶたれる時代だから、兵隊さんは当然だろう、ぐらいにしかこの時は思わなかった。

 ところが、兄が十三歳で陸軍幼年学校に入学したことによって、私は初めて軍隊生活の厳しさ、恐ろしさを知らされた。上官の人柄にもよるだろうが、軍隊のお仕置きは生半可なものではなかった。動作が鈍い、寝起きが悪い、整理がよくない、と実に些細なことで殴る、蹴るの挙句、失神すると水をぶっかける、などは日常茶飯事。体罰が過ぎて死亡しても戦死扱いである。

 天皇が神だった時代、身の回り品はすべて天皇からの御下賜品ゆえ、損ねたり紛失したりすれば半死半生の目に遭わされた。兵士の命は物品より遥かに軽かったのである。兵士に限ったことではない。すべての国民に、人権など与えられなかったのである。

 慰安婦問題にしても、慰安婦が存在したか、しなかったかではない。慰安婦を人間として扱ったか、道具として扱ったか、の違いが国際的に問題にされるのである。大日本帝国がいかに残酷だったかは、戦争を知らない世代には到底分かりっこない。南京大虐殺にしても、慰安婦問題にしても、当時を知らない世代は、口を挟まない方がよいと思う。

軍隊生活で人が変わった兄
 金剛山の麓にあるという大阪陸軍幼年学校生になった兄は、夏休みと冬休みしか帰ってこなかった。兄の後ろについて、魚すくいや蝉取りをする楽しみを奪われて、私はいっぺんに寂しくなった。晴れて鈴鹿山脈がくっきりと見える日には「兄ちゃんはあの山の向こうにいるのだなあ。会いたいなあ」と思っては山脈を眺めた。

 敗戦になって帰還してきた兄は、すっかり人が変わっていた。六年間の軍人教育に加えて、純粋な青年にとっては戦争に負けた悔しさが加わり、自分の気持ちを制御できなかったせいもあろうと思うが。

 或るとき、母に口答えをした私は、すっ飛んできた兄によって水辺へ引きずっていかれ、顔を水中に突っ込まれた。息ができなくて苦しいのなんの。死ぬ思いだった。弟も同じ目に遭わされた。

 この体験によって、軍隊生活のお仕置きの怖さが分かったのである。兄は、軍隊生活の影響が抜けたらしくて、やがて昔通りにやさしい人に戻ってくれたけれど。

農民一揆・九年間に三百五件
 いや、もう、驚いたの何の、私の直系先祖が同志と共に明治政府に楯ついていたとは。小学館刊『日本の歴史24 明治維新』(一九七六年)記載文によって初めて知った。

 幕府とは比較にならない過酷な税を課す明治政府に国民の怒りが沸騰。士族からも、農民からも、日本全国津津浦浦に亘って一揆が起こった。その件数たるや、物凄い。農民一揆は明治六年から十四年まで九年間が最も多く、計三百五回も起こっている。しかも、その抗争が全国一に激しかったのはなんと愛知県春日井郡だというのだ。それは現春日井市、つまり私の故郷である。

 村議員や村の地主一同が協議して、県の作成した収穫分賦書拒否を決定したのが始まりだった。この運動は全国へ広がっていった。ここで思い出したのは、娘時代の私が地域に古くから住む老人からしばしば聞かされた言葉である。

「貴女のご先祖さんは偉い人じゃった。とても堅いお家で、地域のためにいつも一生懸命奔走された」

 その言葉から察して、我が先祖が急先鋒だったとしても不思議はない気がする。年代からいうと私の曽祖父の活躍であろう。曽祖父といえば十二代源三郎である。私が自分の守護霊に思える、と既刊拙著の中に書いたのが、その人だ。

 春日井郡の村民が立ち上がったのは明治十年六月二十二日。あっ、ここで妙な偶然に気づいた。あの憲法記念日に生まれた我が息子の、その長男の誕生日が六月二十二日だ。先祖の霊には、ひょっとしたら子孫を望む日に出生させる力があるのだろうか。

歌会始がきっかけになって
 この孫息子が生まれたからこそ、私は宮中歌会始へのご縁を頂くことになった。ずっと昔二十代のころに、三年間ぐらい短歌に凝ったけれど、それきりで短歌を忘れ果てて暮らしてきた私だった。それが、孫息子が生まれた嬉しさからであろうが、珍しく一首を作った。出産で嫁が入院中の間だけ手伝いに行っていて、孫娘と一緒に洗濯物を干していたら、ひょいと浮かんだ一首。

我が孫と 空の青さをほめ合いつつ 
洗濯物を干し終えにけり

手直しだの推敲だのは一切せず。幼稚ではあるが、しかし佳い歌だと思った私は、たまたま翌年の歌会始のお題である「空」の字が歌の中にあるがため、詠進する気になった。初詠進である。まさか入選するとは夢にも思わなかったので、内定通知を受けたときは本当にびっくりした。

 初めて参上した宮中では、いまだに天皇が神扱いされていることに違和感を覚えた。だがその反面、天皇はじめ皇族方の自由のなさはとても痛ましく思えて、それ以来私は、なぜ天皇制があるかについて真剣に考え続ける人間になってしまったのである。

ふたたび農民一揆について
 農民一揆に話を戻そう。県の作成した収穫分賦書拒否の運動は、翌十一年四月にかけて四十三カ村へ拡大し、更に他の三十カ村にまで影響していった。協議に協議を重ねたが、県の改正事務局ではらちが明かないと悟って、愛知県の農民たちは東京へ代表を送った。この代表の帰郷を何と二万余の農民が出迎えたという。人間の溢れる都会とは違って、村民の二万人とは凄い数である。生活と命をかけた農民の必死な思いが伝わってくる。だが、東京の官側もまた冷淡だった。

 怒った農民達は遂に天皇への直訴を決定した。直訴しようと集まった農民の数四、五千人にのぼった。だが、これも官側の圧力で不発に終わった。圧力どころか脅迫だった。曰く、「分賦書拒否は至尊である天皇への反抗だから、皇国に居住する権利はない。アメリカ、ヨーロッパなど、海外へ出ていけ。さもなくば分賦書を受け入れよ」と言う。なんと冷酷な恐喝だろう。

曽祖父・源三郎からのメッセージ
 ここまで書き進めてきたところで、不意に強烈なものが私の胸に突き上げてきた。「オレ、オレ」 俺、俺。振り込め詐欺を思わせる呼びかけ。連鎖的に浮かんだのは仲良しだった二人の友、幼なじみのよっちゃんと女学校同級生の清子さんの電話がいつも「わたしィ」で始まったことである。親しい間柄を思わせる「オレ、オレ」は曽祖父であろう。私が守護霊だと思っている曽祖父。きっとそうだ。その人の意志らしいものが伝わってきた。叫びと言おうか。私はそれに従ってペンを走らせるしかない。かなり強い語調だ。

・・・農民の辛苦を分かろうとしなかったお役人たちに一言申し上げたい。最後の恐喝文、あれは実に酷い。渡来民族が先住の土着民族に向かって「出ていけ」とは何事か。お前たちは自身が渡来であることをひた隠しにしておるが、隠蔽そのものからして大問題だ。日本の国を乗っ取るという野望があるから隠蔽が必要だったのだ。この機会に、後世の識者たちの審判を仰ごうじゃないか。これを読んだ日本人の一人一人に考えてもらおうじゃないか。

 アメリカかヨーロッパへ行け、の一言でお前たち百済民族の本音が丸見えになったぞ。なぜ、アジアの隣国ではなくて、アメリカ、ヨーロッパなのか。アジア全域を百済民族のものにしようと考えておる野心の大きさが分かったぞ。

「日本の土地は、俺たち百済民族がもらった。先住民のお前らは邪魔だからさっさと他国へ行け」というつもりだろうが、そうはさせぬぞ。我が日本の国を百済民族に乗っ取られたまま黙ってひっ込むわけにはいかないのだ。俺の力で必ず、必ず、日本国民にお前たちの野心を気づかせてみせるぞ・・・・・・

 以上を曽祖父からのメッセージとして、私は受け止めた。アメリカかヨーロッパへ行け、の一言からアジア制覇の野望を見抜いた曽祖父の眼力のなんと鋭いことよ。ところで、この「オレ、オレ」の呼びかけを受けたのは、曽祖父の祥月命日七月十九日の頃だった。それと気づいたのは二、三日経ってからだが。

 さて、話を戻して、農民一揆は岡山、徳島、石川、福井、長野、福岡、和歌山、茨城、三重、岐阜、などなど、全国いたる所に続発。官側によって謀殺されたり、処刑された人数五万余名とは、何と恐ろしい国だろう。となると、私にとって謎であったあの戦没者墓地は、その時の官側死者だったか。

 ここで、ふと私の脳裏に蘇った母の言葉がある。

「この地区はなあ、所有農地をお上に申告するに当たって、真っ正直にそのまま届け出た。ところが、よその地区は実際よりも少なく申告するのが常識になっておったらしい。闇の土地を持たない者は資産が多くても生活が苦しかった」

 そうだったのか。正直者は馬鹿を見たというわけだ。母の言葉から私は我が先祖を、激しい農民一揆に駆り立てた理由が分かった。生一本、真っ正直、正義感の塊のような先祖の姿が浮かんできた。それに対抗した官僚の冷酷ぶりは腹立たしいが、しょせん薩長(百済)人の冷たさだった。その体質は明治維新が生んだものであった。明治政府の構成を見ると、ほぼ七十パーセントを薩長(鹿児島県、山口県)が占めていた。大臣長官は言うに及ばず、次官地方役人に至るまで薩長だった。旧和歌山藩出身の睦奥宗光(大蔵少輔心得)は次のように嘆いている。

「今や薩長の人に非らざれば、殆ど人間に非らざる者の如し。豈嘆息すべきの事に非らずや」

 この明治政府は上層部に名を連ねるのは薩長が多かったけれども、内実は下層級である旧幕臣層の力が大きく働き、その知恵に支えられて明治国家の基盤がつくられたのであった。



明治維新は恐るべき犯罪だった

「藤原に非ずんば人に非ず」の藤原同様に、薩長もまた「薩長に非ずんば人に非ず」と人に言わせた。藤原も薩長も共にその核となったのは百済系帰化人の子孫だったという共通点は無視できない。共に暗殺好きの策略家で、日本の歴史を嘘で塗り固めてしまった点が同じだ。同一民族たる所以か。

 彼らは天皇であろうと血族であろうと邪魔になれば容赦なく暗殺を繰り返した。そんな恐ろしい民族が他にあるだろうか。百済系帰化人の総てというわけではないだろうけれど、一握りの悪が集団を支配し動かしてきたことの恐ろしさがある。明治維新の真相が隠されたままで、天皇暗殺という大罪を犯した組織が罪を問われることもなく、功労者然として明治以降の日本を支配し続けてきたが、こんなことが許されてよいだろうか。明治維新が咎められなかったがために、再び山口県人が中心となって昭和維新(昭和天皇の暗殺を謀った二・二六事件)を起こしたという事実を見逃してはならない。このままでは平成維新だって起こりかねないであろう。明治維新の真相を公開することによってこそ、初めて「維新」という悪の根を断ち切れるのではないか。

日本イコール百済
 韓国の数学者・金容雲著『「日本イコール百済」説』を読むまでもなく、明治維新が百済人による天下取りだったし、天皇も百済人でいらっしゃるから、いまの日本は百済国と言われても否定できない。百済人だからいけないなどと言うつもりはないが、百済人の血ばかりが尊ばれ、政治家、官僚、マスコミ、経済など多くの面で、能力優先であるべきところを、百済系優先の社会に作り変えられてしまった。例を挙げれば、勲三等までは朝鮮人で占められているとか、官公庁の中には、本籍が朝鮮人集落でないと出世コースに乗れない省庁があるなどと言われている。

 策略家で闘争好きの百済民族が、温厚実直な大和民族を抑えて、その能力を潰すことは、決して日本の発展につながらない。アジア平和のためにもならない。

住井すゑの言葉
 図書館のリサイクルで思いがけなく手に入った『住井すゑ対話集3』は考えさせられることが多かった。住井すゑの頭脳の鋭さは驚嘆に値する。一九〇二年、奈良県に生まれた彼女は、地域の長老たちと共に橿原神宮や天皇御陵が根拠のない土地に造られていくインチキをしっかりと見据えながら育った。全国から大樹を集めて境内に移植し、紀元二六〇〇年の祝賀が催されたこと、歴代天皇の名が明治に作られたことなどから、住民たちは天皇制のごまかしを充分に知り尽くしていた。だが殺されるのを恐れて口には出さない。才知と正義に溢れる彼女は「偽り」と「言えば殺される」ことを容認できなくて、逆に批判精神を高めていった。

 一九九四年に、フィリピンのF・ショニール=ホセとの対話で、住井すゑは次のように語っている。

「天皇制思想というのは、もう最悪のものです。これで日本人そのものも不幸になるし、周辺も不幸になる。世界に災いを及ぼすものは天皇制ですよ。日本からこれを取ってしまえば、日本という国はすばらしい民族の国だと思います。」
 この対話集が刊行されたのは一九九七年である。二〇一三年のいま、これだけのことを口にしたら無事ではすむまい。殺されるか、社会的に葬り去られてしまうであろう。第一、書の刊行も難しかろう。それは何を意味するか。いま、またもや日本は策略家に完全にのさばられてしまった。つまり、かつての戦争直前と同じ言論弾圧。この後にはもっと重大な事態が待ち構えているというわけ。なんとしても食い止めねばならない。

 策略は人を殺す。人を活かすのは叡知である。策略家を国家権力の座に置くのは危険極まりないことだ。叡知が策略を上手に抑えることができれば、初めて平和は守られていくのである。
(二〇一三年 七月二十八日)

       ――『ちば文学』(編集 ちば文学会・発行 文化芸術村の会)
          第12号に掲載したものを一部修正・転載――
大和民族は二重の被害者だった
 現在日本は中国、韓国、北朝鮮との関係がうまくいっていない。円満な関係を築くためには思いきり深く問題を掘り下げて考えなければならない。その意味から私はあえてこの問題を取り上げた。在日朝鮮人、在日韓国人および帰化人を敵対視するつもりはなくて、逆に対等、円満な関係が築かれることを願ってこの文を書く。だが、内容から言ってどうしても言葉が厳しくなってしまうであろうことを心苦しく思う。

私が朝鮮人から受けた被害
 日本は一九一〇年から一九四五年までの三十余年の間、朝鮮を植民地支配してきた。その恨みからの仕打ちだと思い込んでいたが、敗戦直後に少女の私は半島訛りの大人から嫌がらせを受けたことがある。交通難の時代で、バス待ちの長い行列に並んでいた私は割り込み呼ばわりされ、列から弾き出されてしまった。前後に並んでいる人達が事実無根であることを知っていて、そっと助け船を出して私を列に戻してくれたが。別の時に別のところで全く同じ形の虐めを受けた女性が他にもいたので、あれは朝鮮流の虐めだろうか、と話し合った次第である。

 中高年時代には別の形の被害を受けた。自分の所有していた小さな貸家に、日本名を名乗り言葉も達者だったから入居させたのが朝鮮人だった。賃料滞納を続けたまま半年ほど居座わられ、挙句に近所に我が家の悪口を言い触らされた。「実にいやらしい大家だ」と。当方としてはただ滞納分の支払いを請求したに過ぎないのに。弁護士を立てて退去にはこぎつけたものの、滞納分は未収のままになった。私だけでなく、母所有の貸家も滞納問題で同様の苦労をした。これも日本名だから知らなかったが、後で町内の役員を務める縁者が調べて教えてくれたところによると、こちらも朝鮮人だったのである。

 まだある。日本名を名乗る朝鮮人によって我が家は迷惑を被ったことが。我が土地から一軒置いた隣の住宅を購入して朝鮮人が引っ越してきた。これまでの例とは逆にこの人は「李」の表札を掲げて近隣との交流にも朝鮮名を名乗り、堂々と朝鮮人であることを示していた。ところが交流とは別に、彼は所有資産の登記は日本名を使っていた。なんとそれが私の夫と一字も違わない全くの同姓同名だったのである。そのために我が家は異様な事態に巻き込まれてしまった。まず我が家は宅地の固定資産税を確実に納入したのに、その督促状が役所から送られてきた。次は我が宅地がいつの間にやら転居してきた同姓同名の朝鮮人所有に変わってしまった。そんな馬鹿なと思って市役所に異議申し立てをしたら、妙なことに、言葉の申し出だけであっさりとすぐに訂正されて元に戻った。どこでどうなってのことなのか。どうにも腑に落ちない。

 あまりの事に往生しきった夫は、致し方なく家庭裁判所へ申し出て改名の手続きを取った。裁判官は「本当はあちらが改名してくれるといいのですがねえ」と言いながら改名許可を与えてくれた。夫にとって親がつけてくれて何十年も馴染んできた名前を変えるのは苦痛だったろう。効あって改名したら何事も起こらなくなった。なぜあんな簡単に土地の登録が動くのか。他人のものにされたり、また取り戻せたり。捺印とか署名もせずに口頭だけで動いたのは不思議でならない。どこかに何かの陰謀があったということだろうか。

 姓名に関してはまだある。私が貸家を建てるために農協から借金をして、その借金を何年もかかって返済し終わったときのことである。借金を申し込むときに農協への出資が義務付けられて資金を収めた。そのお金を返却してもらうための手続きを済ませたが、お金はすぐには出せない、まず債券を預かるという。いぶかりながら債券を手渡した。それっきりで何か月経っても連絡が来ない。請求の電話をかけたところ、既に同姓同名の人に返却金を渡したと言う。「えっ」という驚きだ。関係のない人が黙って受け取ってしまったなんて、到底信じられない。公的機関に関するごまかしは他にもあったが、既刊拙著『増補版 私の不思議な体験』に書いたのでここでは省略する。公的機関といえども実にずさんで信用できない、ということを私は骨身に徹して悟った。

 私は朝鮮人の不正に対しては植民地支配の恨みがそうさせたものと判断して、これまでは咎める気持ちなど抱いたことはなかった。仕方がない、と思って許し、人にも話さなかった。なお、朝鮮人以外からは、これほどに酷い目に遭わされた記憶はない。親切を受けたことは何回もあるが。

朝鮮を植民地支配したのは百済系帰化人だった
 近年になって、朝鮮を植民地支配したのは大和民族ではなかった、という事実を私は知った。暗殺、策略という卑劣な手段によって明治維新以降の日本は、百済系朝鮮民族帰化人の子孫が支配者にのし上がっていたのだ。植民地支配はその彼らが中心になっての仕業だった。そうと分かったら私の気持ちが一転、強烈な怒りが込み上げ、煮えくり返る思いになってしまった。まず、日本国の象徴である天皇からして百済系帰化人の子孫であったとは。さらに政界、財界ともにその中心となっているのが、百済系帰化人の子孫だというではないか。日本の国は完全に百済系帰化人の支配下にあったし、今もある、というわけか。となると、朝鮮人の不正は植民地支配の恨みというよりも、日本人を見下す気持ちからのものだったか。それとも元々そういう悪どい性格の民族なのか。いやまさか、民族の皆々がそうということはあるまい。真面目で温かくて優しい人の数の方が圧倒的に多いであろう。しかし、たとえ一部のせいだとしてもこんな馬鹿な。土着民族が渡来民族から一方的にやられっ放しなんて。しかも被害を受けるばかりの上に、やりたい放題の彼らの罪は全部土着民族におっ被せられるとは、あまりに酷すぎるではないか。

 戦争責任を大和民族におっ被せられてしまったが、今後は戦争責任を論ずるのに、土着民族と渡来民族を切り離して考えてもらいたいものだ。ひっくるめて「日本がやった。日本人がやった」という言い方は金輪際止めてもらわないことには、大和民族の立つ瀬がない。

 私たち世代は誰もが植民地支配時代の朝鮮人に接した経験を持つ。当時は今と違って朝鮮人の言葉に独特の訛りがあるから確実に識別できた。日本人の中には、彼らから何らかの被害を受けた体験を持つ人が珍しくない。「日本人はおとなしいけど、朝鮮人はきつい」という言葉をよく耳にした。私もこの人たちも虐めの加害者になったことはなくて、一方的に被害体験だけを持つ。

 朝鮮を植民地支配したのが大和民族だったのなら、私は恨み言を言わないが、支配者が百済系朝鮮民族帰化人の子孫だったとなると話はまったく別だ。

 ここで気になることがある。百済系帰化人に支配されている日本の国で、新羅系帰化人はどうなっているのだろう? 百済系に呑み込まれてしまったのか。それとも部落出身とされ、侮られたのは彼ら新羅系だろうか。そういえば、戦時中「支那のチャンチャン坊主(言いだしっぺは新聞だった)」「朝鮮坊」という呼称で他国を蔑む一方で、私たちは日本が大和民族だけの優秀な単一民族だと教え込まれて、自尊他卑精神を植え付けられた。これこそ百済人の心を持つ為政者が発信元だったのではないか。百済系血筋であることを隠したいから「単一民族」を強調したのではないか。いずれにしろ、大和民族は彼らに利用されっぱなしの被害者でありながら、加害者にされてしまった二重の被害者だ。なんとおめでたくて、哀れな存在であることか。

 日本政府は、支配層の中心が百済系帰化人の子孫であることをありのまま正直に国の内外に公表し、堂々と血筋を明かしてくれないだろうか。大和民族の立場を救うためにそうして欲しいと思う。大和民族の心を持つ国民は、自分たちが百済系帰化人から二重の被害を受けてしまった立場だという事実をしっかりと認識した上で、このことを全世界に示そうではないか。この先また同じことが繰り返されかねないから、それを防ぐために。

 中国に対する侵略も、朝鮮への植民地支配も、大和民族のふりをした百済系帰化人の仕業だった、つまり唐(中国)や新羅(朝鮮)への仕返しであったことを、世界中の人々に知ってもらう必要がどうしてもあると思う。中国や韓国との関係改善のためにはそうしなければならない。

 ここで大日本帝国時代の支配者百済系帰化人が日本国民をどのように扱ってきたかを、私の記憶を辿って書いてみよう。そして、何が問題かをしっかりと考えてみたい。

十三歳の少年兵
 十三歳の少年兵だったのは私の兄である。一九四〇年、中学校一年修了と同時に兄は陸軍幼年学校に入った。愛知県の親元を離れて、金剛山の麓にある大阪陸軍幼年学校で合宿生活による厳しい軍人教育を受け始めたのである。わずか十三歳の少年にとって、それはどんなに寂しく辛い年月であったことか。日本の国はなぜあのような早期軍人教育を推し進めたのか。いぶかしく思えてならない。

 夏休みに入って四か月ぶりに帰省した兄は、小ぶりの軍服に身を固め短刀を腰に下げて、身のこなしもきびきびと愛らしくて凛々しい少年兵に変貌していた。当時の日本では「僕は軍人大好きよ、いまに大きくなったなら、勲章付けて剣下げてお馬に乗って、はい、どう、どう」の歌と共に戦争ごっこが男の子たちの遊びだった。陸軍幼年学校による早期軍人教育は、軍国主義高揚のための秘策だったろうか。

 陸軍幼年学校の入試がかなり難関だったのは、国の政策として各中学校へより多くの生徒を受験させるよう、示唆に富む通達がなされていたからであろう。教師が生徒の一人一人を呼んで説得する形を取ったと聞くから、兄は追い詰められて受験した一人だったかも知れない。海軍の方も同様に難関の海軍兵学校があったが、もう少し年長募集だったように記憶している。海軍飛行予科練習生(予科練)も少年たちの憧れの的であった。

 当時の国の政策には不審を抱かされることが多々あるが、これもその一つだ。陸軍幼年学校から進む陸軍士官学校や、海軍兵学校などの難関をパスした優秀な若者を思い切り厳しく叩き上げて、最後は死地へ赴かせる。一般男子からの召集兵にしても、体力壮健の優れた青年から優先的にどんどん戦場へ送り、死なせてしまう。アメリカの国策は全く正反対だった。優秀な若者には恵まれた職場を与えることで軍人にさせまいとする方針を取った。アメリカは志願兵制度であった。無人飛行機を考案したアメリカ。特攻兵器を創った日本。アメリカは兵士を死なせまいと努めたのに、日本は兵士を殺したがっていたとしか思えない。百済系帰化人は大和民族を殺したかったのか。しかも優秀な人材を狙って殺した、と私には思えるのだ。

 ある夏の夕方、薄暗い縁側の隅っこで母と祖母がぼそぼそと話し合っていた。クシュンと鼻水をすすり上げる音が聞こえたので、思わず耳をそばだてた。

「やっぱりヒロシは死ぬことになるかなあ」

「そりゃあもう、お国に捧げた子じゃもの。死なないかん身じゃ」

 兄の身を案じての会話だった。「君死にたもうことなかれ」とうたった与謝野晶子の詩そのままの心情を私の家族も味わっていたのだ。我が家に限らない、国民の多くが味わった辛苦の情。どんなに切ない思いであったことか。

軍人教育の柱
 少年兵たちが受けた教育の柱は何だったか。それは「潔く死ぬ人間を作り上げること」の一語に尽きた。生への執着は人にとって最も強い本能である。それを断ち切らせるために大日本帝国が用いた手法は何だったか。いま改めて振り返ってみると、はっきりしたものが見えてくる。

「万世一系の神の子孫である天皇」を至尊の存在として、若者たちの胸中に崇拝の念をしっかりと植え付ける。それが柱の中心だった。崇拝の念が強烈であれば、若者たちは惜しみなく命を捨てる。死ねば靖国に祀られ、神である至尊の天皇が礼拝下さる。日本国民としてこれに勝る栄誉はない、とばかり、若者の心を靖国神社へ誘い込むのである。私は兄の陸士卒業アルバムの中にその姿をはっきりと見た。そこには「靖国で会おう」の合言葉が溢れ返っていた。「貴様も俺も死ぬのだ。死のう」ということだ。靖国に祀られることが彼らの目標になってしまったのである。読んだとき、私は頭がくらくらした。それは人間の尊厳を完全に抹殺した非人道的世界だった。

靖国参拝はなぜ問題か
「天皇制」と「靖国」はしっかりと結びついた関係にあり、軍国主義の促進強化のための強靭なシステムになっている。靖国参拝が問題になるのはA級戦犯合祀が原因だ、とする見方は単純かつ浅過ぎる。もっと深いところに靖国を礼拝することの危うさが潜んでいる事実に気付かねばならない。

 福島新吾(二〇一三年五月、九十余歳で没)が言い残した言葉は重い。

「あの戦争は政治に先見性がなくて陸軍の強硬論を砕くことができなかったから起こった。人々の目を惑わせた最大のガンは神格化した天皇制信仰であった。それを基にする言論思想の自由の制約であった」

 ずばり的を射た発言である。天皇個人がいかに善良な方であっても、天皇制という制度は嘘と隠しごとがいっぱいあって、得てしてそういう所には危険を伴うことが起こりやすい。世襲の天皇制が続く限り、日本の国は世襲の百済系権力軍団の天下が続き、軍団の配下には忠実な官僚が存在して国を操り続けるだろう。街頭演説第一声に「人間には命を捨てても守らねばならぬものがある」と言った人が権力の座に着いた。あの言葉は今にまた大和民族の血を流させようとする予告の響きがあって恐ろしい。大切な隣国である中国(唐)と韓国(新羅系)への憎しみが心に潜んでいるかも知れない百済系帰化人の子孫が天下を取っていては、アジア平和が遠のくのではないか心配だ。天皇制と靖国神社が温存されたため、戦争好き氏族が復活して日本は再び戦前へ戻り始めた。言論弾圧が年毎に強まり、崖っぷちへと私たちは歩かされている。これを止めようとする賢人は、策略のでっちあげによって犯罪者に仕立てられ、次々と潰されていく。原発反対者もご多分にもれない。これでは中国に負けない独裁ぶりではないか、と思えてしまう。

 いつからか「安倍さんは民主主義を壊すつもりか」「安倍さんは怖い」といった声ばかりが私の耳に入ってくるようになった。高齢者の多くは、今の政治の独裁をとても不安がっている。なのに新聞は問題の人を「好評だ」と書きたてるのがどうもおかしい。戦時中の大本営発表同様の情報操作ではないか、の声が出始めている。敗戦によってやっと手に入ったあの伸びやかさは一体どこへ消えてしまったのか。枠のはめられた新聞しか読めなくてはつまらない。日本国民の知性がどんどん低下しつつある。

本当の戦争責任者は誰か
 あの戦争は一部軍国主義者が起こしたもので中心となったのは陸軍だった、とされ東条英機に責任が被せられたが、実態はそんな単純なものではなかった。吉田裕『昭和天皇の終戦史』その他の戦争史資料によれば、大日本帝国軍国主義の原動力は陸軍が長州(山口県)、海軍が薩摩(鹿児島県)だったという。明治以降の薩長閥の支配力の強さは人々の知るところである。明治維新功労者とされた氏族が薩長だった。その力が受け継がれて明治政府がつくられ、大日本帝国が誕生し、次々と戦争を起こしていった。その延長が日中戦争、対米英戦争であった。人の手柄は我がものに、我が罪は人に押し付けることの得意な薩長が、自ら起こした戦争の責任を巧妙に、陸軍関係者の中の薩長人ではない人物に負わせた、とする説には信憑性が感じられる。

 東条英機の父・東条英教陸軍中将は陸大を首席で卒業した俊才だったが、本籍が岩手であることから長州閥に睨まれて出世が遅れた、と本人も英機も感じ取っていた。対米英戦が避けられない情勢になった真珠湾攻撃の五十日ほど前に、東条英機を首相に推したのが他ならぬ長州閥だった。難しい対米英戦の責任を、彼らにとっては異邦人である東条英機におっ被せたというわけだ。東条におっ被せた人として近衛文麿の名も挙がっている。近衛文麿は百済王子豊璋(藤原鎌足)の直系子孫だと推察されている。長州閥の思惑通りに事が運んで、東条英機は重罪戦犯として刑場に消えた。

 戦争の源流は満州事変から始まった日中戦争にある。対米英戦はその影響による結果に過ぎない。ところが、東京裁判では対米英戦を表に打ち出すことによって、肝心の日中戦争の責任をぼかす努力をしたのが公卿グループだった。公卿は言うまでもなくその中心が百済系帰化人の子孫である。

 東京裁判で死刑になったのは、広田以外がすべて陸軍軍人であった。陸軍がほとんど全ての責任を負わされた形になったのである。陸軍の軍人被告たちは怒りを抑えきれなかった。絞首刑の判決を受けた武藤章は一九四八年九月二十五日の日記に次のように書き残した。

「日本歴史は公卿の罪悪を

掩蔽
(えんぺい)
して、武家の罪のみを挙示する傾きがある。大東亜戦争の責任も軍人のみが負うことになった。武人、文に疎くして歴史を書かず、日本の歴史は大抵公卿もしくはこれに類する徒が書いたのだから、はなはだしく歪曲したものと見ねばならぬ」

 心して味わいたい内容である。彼の言葉を翻訳すると、戦争責任は百済系帰化人たちにこそある、ということになりかねない。近衛文麿を筆頭に、長州閥も公卿もその中心となったのは百済系帰化人を父祖とする人たちだった、という説に注目すればそういうことになる。

 どうやら、本物の責任者に限って、責任を他におっ被せることばかり考え、企むものらしい。

 日本の歴史は、神話に始まって古事記、日本書紀ともに藤原一族により彼らの都合のよい形に書き換えられてしまったとの説が有力になってきたが、昭和もその延長線にあったと考えられる。日本という国は藤原氏を頭に戴いた百済系帰化人の子孫に引っ掻き回されっ放しのまま現在に至っている。

百済系帰化人による仇討ち
 考えねばならない重要な問題がある。既に軽く触れたけれども、大事なことだから念入りに復習する。彼ら百済系帰化人に植民地支配された朝鮮と侵略された中国、この二つの国の歴史を百済の国が滅びた時代まで遡って見てみよう。百済を滅ぼしたのはどこの国だったか。それは新羅と唐の国である。新羅は植民地支配当時の朝鮮であり、唐は日中戦争のときの中国である(聡明なあなたはもうお気づきであろう)。百済系帰化人である日本の支配者は、自らの父祖の国を滅ぼした者への仇討ちを果たした。それがあの中国侵略であり、朝鮮の植民地支配だったのである。朝鮮との関係をこじらせたのは伊藤博文であった。日中戦争は近衛文麿が中心となって進めていった。近衛文麿は百済王子豊璋(藤原鎌足)の直系子孫であると思われる。百済系帰化人の子孫である天皇を神として敬い、同じく百済系帰化人の子孫近衛文麿の指示に従って、日本国民は必死に戦った。お人好し大和民族は、そのように百済系帰化人にまんまと利用されて、彼らのために命を投げ出した。その上に中国侵略と朝鮮支配の汚名を着せられてしまった。だから二重の被害者だったのである。

朝鮮学校
 日本の支配層の中心が百済系帰化人の子孫であることに加えて、かつての大日本帝国にそっくりな北朝鮮が日本人と韓国人を拉致したことから、私はより深く日本と北朝鮮との関係を知りたくなった。日本各地に朝鮮人集落が現在も依然として存在していることや、日本人の中に完全に溶け込んで日本人然として暮らす朝鮮人もかなりいると知った。具体例を挙げてみると、私の出生地春日井では近隣のあちこちに個々に居住していたことは既に書いた。現在住んでいる名古屋市でも朝鮮人集落が点在していると聞いた。知多半島に住む人の話によると、知多には二つの朝鮮人集落があって、彼らは共通して性格がきつく、神道に所属しているとのことであった。ここで私は朝鮮学校の実態を調べることを思い立った。意外なことに、日本に存在する外国関係の教育機関としては、断トツに朝鮮学校が多くて八十余校も設置されていた。

 幼稚班、初級学校、中級学校、高級学校、大学校の種類があって、初中高併設の学校、中高級学校、初中級学校の形があり、幼稚班が付設された学校もある。校長は北朝鮮本国の金総書記の決裁によって決まる上に、元校長や元教員があの日本人拉致問題に関与して指名手配になっている。朝鮮学校の校長が朝鮮労働党に直結した政治活動家であるにもかかわらず、朝鮮学校が温存していることの不思議を思わずにおれない。日本支配層の核に百済系帰化人の子孫が潜在し、同族である北朝鮮人首脳と陰に繋がっているのではないかと私は疑う。拉致問題の解決に力を発揮できるのは彼らであろう。

 教育内容が北朝鮮本国とまったく同じであるため、その弊害に気付いた保護者の中には子弟を一般の公立校へ入学させる例が増えて、朝鮮学校の生徒数は減る一方となり、一九七〇年代には四万六千余名だった生徒数が、二〇〇九年には八千三百名にまで減少した。そのため学校数も七十三校(うち休校が八校)に減った。私の住む名古屋市でも中村区と千種区に朝鮮学校があったけれど、生徒数の減少のため、千種区の学校は中村区の学校に吸収合併されたそうだ。不思議なことに、生徒必ずしも全員が北朝鮮国籍とは限らず、北朝鮮籍と韓国籍がほぼ同数あり、さらに帰化人と思われる日本籍が数パーセント存在する。

 朝鮮学校に対しては北朝鮮から教育援助費や奨学金が送られているが、日本側としても朝鮮学校に校舎や机の備品を無償譲渡したり(伊丹市)、市有地を五十年にわたり無償で貸したり(大阪市)、相場の百分の一の賃料で四十五年間提供していたり(尼崎市)、といった支援を行なってきた。韓国系学校についても調べてみたが、こちらは四校の存在に留まり、特に意外性はなかった。国交のない北朝鮮とこれほどに密接な関係を持っているとは甚だ奇怪である。

北朝鮮という国
 朝鮮学校を調べた結果から分かったのは、日本という国がいかに朝鮮民族と深く重くつながっているかが歴然としてきたことだ。朝鮮学校の教科書内容では朝鮮戦争の最初の頃の勝利が、優れた指導者将軍様の力と勇敢な兵士たちの死闘の賜物だと表現するが、中国の援軍によることはひた隠しにしている。このように物事を自分の都合のよい形に偽る上に偏重した教育を行なっている点から始まって、軍国調よろしく整然と閲兵式に行進する兵士たちの手足の先まで力をみなぎらせる硬直ぶりは、かつての大日本帝国そのままだ。大日本帝国軍人の姿はそっくり北朝鮮へ移動してしまい、日本にもうその面影は見られない。大日本帝国が恐ろしかった私は、北朝鮮にも恐怖を覚える。北朝鮮という国は共産主義であることを別にすれば、「天皇」が「総書記」と呼称を変えただけという感じだ。日本は北朝鮮と血を分けた兄弟国のように見える。血筋の繋がりを外部にはひた隠しにして他人のふりをしているが、その実、裏では太く繋がっていることをいま初めて知った。奇妙なことに思えてならない。大日本帝国がアジア全域制覇を狙ったのと同じように、北朝鮮もまたアジア制覇を目標としているのではなかろうか。韓国や日本を呑み込んでしまうつもりではないだろうか。百済民族という民族はうぬぼれ強く謀略によって他民族を制圧支配することばかり企む人種だろうか。かつての大日本帝国がそうであったし、北朝鮮という国も同様だからそう思えてくる。拉致事件がそれを臭わせる。あの拉致は日本や韓国を自分の国に呑み込まんがための準備工作ではなかろうか。朝鮮学校の存在が大きな役割を果たしていることに私は危機感を持つ。「同族だから仲良くしよう」ではなくて「同族だから呑み込んでやろう」とする恐れのある北朝鮮に、韓国と日本の大和民族は気を許せない。

韓国と北朝鮮
 どちらの国も日本にとって大切な隣人であり、また親戚のようなものだと私は思う。理解しあえる円満な関係になりたい、と心から願わずにいられない。日本は無論のこと、この二つの国にも平和を愛する穏健な政治家が立ってくれることを熱望してやまない。日本に植民地支配されていたことに対しては、韓国は恨みがましいことをずいぶん聞かせてくれた。しかし北朝鮮からはそうした声があまり聞こえてこない。それもそのはず、植民地支配時代、日本は朝鮮北部に対してはかなりの恩恵を施してきた。植民地支配の朝鮮北部へ技術者として赴任した夫に従って渡り、あちらで暮らしたという老婦人から直接体験談を聞いたことがある。

――まったく何も無い所へ私たちは行って、自分が住む家からして造らねばならなかった。橋だ、鉄道だ、工場だ、といっぱいお金と技術をつぎ込んで国づくりをしてきた。――

 というその話から察すると、恐らく百済人は北部に多く住んでいたのであろう。日本国民は絞られ利用されっぱなしだったが、朝鮮南部も絞られ側だったことを考えると、百済を滅ぼした側の新羅系の多くは朝鮮南部に居住したからであろう。大日本帝国の支配者は日本人でありながら、その実百済人の心を持っていて百済人を同志として愛していたということではないか、と思える。

敗戦後の日本
 マッカーサー元帥は天皇制をうまく利用しながら、日本を民主化させようと頑張った。彼の意向を汲み取って、昭和天皇は民主化に精一杯努められた。「血が濃いのはよくない」と言って皇太子妃に百済系ではない日本土着民の美智子妃を迎える力になった方であるだけに、大和民族を愛していられたに違いない。では百済系帰化人勢力はどうなったか。勢力の要であった近衛文麿が戦犯に問われ自決したことによって、いったんその勢力は衰えたものか。それとも大和民族を愛する天皇のもとでは力を発揮できなかったということだろうか。

 八十四年生きてきた私の生涯の中で一番良かったのは敗戦後の昭和時代であった。敗戦によって地下室から地上へ躍り出たような解放感が味わえた。陽光降り注ぎ、薫風吹き渡る地上のなんと快いことか。平和、自由、平等、女と庶民階級にとっては実に楽しい世の中に変わった。特に言論の自由は嬉しかった。書くことの好きな私は、いっぱい新聞に意見を載せてもらった。とはいっても、A級戦犯をうまく逃れ、策略家だとの噂高い岸元首相の存在は恐怖だった。「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻すこと」がこの人の政治目標であった。安倍首相の動きを見ていると、一族の目標でもあるらしい。安倍首相は岸元首相の外孫であり、岸を非常に尊敬しているようだ。

 昭和天皇が高齢になられ、重篤に陥られた頃から日本は明らかに右傾化。百済系帰化勢力が復活して動き始めたと考えられる。日本は回れ右をし、大日本帝国再建を目指す国になってしまった。なぜこうなったか。察するに平成の天皇は敗戦のとき十一歳という幼さだったし、宮中の空気だけを吸って成長されたため、私達から上の世代の国民が切実に味わった戦争悲劇の本当のところが、よくお分かりになれなかった。そのため、復活した百済系帰化人の軍団に付け込まれてしまったのではないかと思う。韓国に対して、「『縁』を感じる」と言われた天皇のお言葉が韓国の人たちに好意的に迎えられたのはよかったと思うけれど、反面、昭和天皇とは異なる側面を見る気がした。ともあれ、平成時代となって国民も戦争を知らない世代がほとんどになった。大日本帝国再建を企む百済系帰化人の子孫にとって好都合な時代になってしまった。

 大日本帝国時代がそうであったように、いまの日本もまた、まともな意見を言う人が片っ端から消されている。私のような無名の者ですら、天皇家の血筋うんぬんを書いたことでブラックリストに載せられたらしく、以後は何を書いてもボツになって新聞への意見発表が不可能になった。私に限らず、他の人たちからも同様の嘆きが伝わってくるようになった。言論弾圧の網の目は日本中に張り巡らされたことが分かる。恐ろしい日本になった。

 国民の目や耳や口を塞いでしまう政治家の独走を許したままでは、日本国民は幸せになれない。大和民族よ、塞ぐ手を払いのけて、よく見よう。よく聞こう。そして、どうしたら国民が幸せになれるか、についてみんなで考えねばならない。

敗戦前の天皇像と、敗戦後の天皇像の違い
 敗戦までは天孫降臨、万世一系という虚偽によって作り上げられた天皇像だった。敗戦以前の偉大なる天皇は、ご真影という形の写真でしか国民の前に姿を見せることはなかった。尊い、尊い、神の子孫だから、畏れ多くて国民は直接そのお姿を拝することができなかった。天皇のお出ましは大元帥陛下として、白馬にまたがっての閲兵だけだった、と私は記憶している。それは当時の支配者、つまり天皇制の黒幕である百済系帰化人子孫が天下を取り続けていくための手段だったのである。

 これが敗戦と同時に一変した。

 敗戦は日本を支配していた百済系帰化人の子孫たちにとって、死活の分かれ道となった。天皇制が廃止されたら万事休す。その高い地位を失いたくない彼らは、国体維持すなわち天皇制継続だけを条件に降伏の道を選んだ。結果、天皇は日本の象徴として存在されることになった。彼らは平成のいま、これを君主に戻そうと必死である。万世一系は嘘、天孫降臨も嘘、実は明治天皇は朝鮮人集落の出身者であったという、明治維新の真相を知る人が増えつつあり、「天皇は朝鮮人だ」という声が巷のあちこちで囁かれるようになった。そこで彼らが考えたのは、天皇から離れようとする国民の心を引き寄せるために、天皇、皇后に公務という形で民間人との接触の機会を増やすことだった。完全に、敗戦以前とは逆の形になった。

 受賞であれ、被災のお見舞いであれ、園遊会であれ、天皇、皇后から直接お言葉を頂いた人々は恐らく、私が歌会始の折の拝謁によって天皇、皇后に好感を抱いたのと同様に、お二方に対して好感と親しみを抱かれるであろう。それが天皇の背後に控えている百済系帰化人組織の狙いだ。天皇の人気が上がれば、そのまま彼らの地位安泰に繋がるからである。

 天皇、皇后に親しみを覚えた国民は「別に天皇が朝鮮人だってかまわない」という心情になる。民族の全体とは言わないまでも、傾向として大和民族はそういうお人好しなのだ。優しくおとなしい民族なのだ。これも全部とは言わないが、きつくて天下取りばかり考える傾向の強い百済系帰化人にとって、こんな扱いやすい民族はないだろう。天皇の背後に百済系帰化人の子孫が組織化して控えて、大日本帝国に戻そうとしている。その事実に注目すると、彼らの存在は恐ろしい。彼らの精神は明治維新から繋がってきている。何しろ、天皇を暗殺してすり替えるという大罪を犯しながら、何食わぬ顔をして功労者然としてきた氏族である。彼らが築き上げた天皇制というシステムは怖いが、天皇個人は別である。むしろ逆に天皇をはじめ皇族は痛ましい立場であられる。あの近衛文麿もまた昭和天皇の暗殺をもくろんだ一人であったことを考えると、この先、天皇、皇后の身だって風向きが変われば、いつどんなことになるやら。皇族の身の上も安心できない。

 天皇制の黒幕は二本立てになっていて一本は百済王子豊璋(藤原鎌足)の直系子孫近衛文麿を核とするもの。もう一本が明治維新功労者とされた氏族の子孫たちであろう。何しろ、天皇を暗殺してすり替えた同志たちだから、彼らこそ国民のみならず、天皇はじめ皇族をも支配している恐るべき独裁者なのである。日本国民を不幸にするのは彼らだ。いや、彼らの中の一部の曲者というべきか。

 秋の殊勲賞受賞者の氏名が発表された。明治維新の真相を知ってしまったいまの私は、複雑な思いでこのニュースを見た。私の歌会始などとは段違いの栄えある殊勲賞受賞の方たちの胸の高まりはいかほどであろうか。祝福の思いのある一方で、それだけでは済まされないモヤモヤが私の胸中に湧き出てくる。

 明治維新のとき、天皇暗殺とすり替えを行なった百済系帰化人の子孫が、日本の支配者の中心となり、天皇制を継続させることによって日本支配の座を守り抜いている、というこの事実を知らない方々が有難く賞を受けられるのは、人として当然の心理である。この方々の偉業に対しては素直に祝福申し上げたい。だが、他方に文化勲章を辞退された大江健三郎氏がいられることにも注目したい。氏が文化勲章を辞退された理由は、私の思いと同じではないかも知れないが、私は大江健三郎氏の偉業を称えると共に、気骨と勇気に脱帽する。

血筋に貴賤は無い 貴賤は精神にこそある
「天皇家の血筋が尊い」と書いた櫻井よしこ氏は、戦争が終わった年の秋に生まれた人だ。氏のこの言葉は私を仰天させた。なぜかと言えば「天皇は尊い神の子孫だ」と言われて私たちは酷い目に遭った。あの戦争である。私たち戦争体験者は「天孫降臨、万世一系」を信じ込まされ、「神である天皇のために死ね、死ね」と言われて戦い、多くの命が失われた。敗戦によって天皇が人間宣言されただけでなく、その後、国を憂える正義の歴史家の手によって天孫降臨も万世一系も嘘だったと知らされた。あの戦争は、天皇家を神の血筋だと偽ったことから出発していた。だから、血筋を問題にする思想には恐怖を覚える。「天皇家の血筋が尊い」と言われると背筋が寒くなる。再び戦争をおっぱじめる国になりはしないか、と不安になるからだ。戦争を知らない世代の危うさを思う。

 天皇家の血筋は神でも万世一系でもなくて、本当は百済系帰化人の子孫だった。私は血筋に貴賤があるとは思わない。貴賤は精神にこそあるのだ。だから天皇家と同じ血筋の百済系朝鮮人ならば天皇をその血筋ゆえに崇拝するということができるだろうが、他民族の自然の情としては無理があって当然ではなかろうか。他民族にまで共感を求める筋合いのものではないのに、かつて彼らは大和民族を含む他民族に天皇崇拝を押し付けた。結果が「八紘一宇」と称して天皇のご威光を全アジアに広めるという名目の戦争、つまり侵略であった。「八紘一宇」とは戦時中に政府が国民に示した理念であったが、天皇のご威光のもとに世界を一つの家のようにする、という主旨だ。何のことはない。侵略を表現する飾り言葉である。八紘一宇を掲げた大日本帝国が行なったことといえば、策略、暗殺、戦争、つまり人殺し常習犯ではないか。

 自らの血だけを尊び、長たらんと欲した百済系帰化人の子孫は、大和民族を犠牲にして近隣国アジア諸国をも痛めつけてしまった、というのがあの戦争の実態なのだ。「天皇家の血筋が尊い」という戦前思想を、いま再び押し付けられるのは真っ平だ、と私たち世代は思う。戦争によって目覚めたからこその思いである。戦争を知らない世代はどうにも危なっかしくて見ておれない。戦争体験によって私たちが開眼したことの重要性に気づいて欲しい。民主主義に必要なのは崇拝の対象などではない。みんながお互いを尊重しあう精神こそ必要なのである。敗戦によってせっかく私たち庶民の手に入った「自由」と「平等」とそして「平和」がどんどん逃げていく。どうすれば呼び戻せるのか。

日本はなぜ陰湿国家か
 何年前だったか、ブータン国王が来日されて、その表情がとても温かくて自然であることが印象に残った。明るさ、優しさが満ち溢れてお幸せそうだった。きっとブータン国民も国王の温情に包まれて幸せであろう。

 反射的に思ったのは日本の皇室の姿である。こちらは自由からほど遠い重圧のもとに置かれた痛ましさがある。日本は国民の表情も暗い。私がそれに気づいたのは二十年ほど前にアメリカやベネズエラに旅行してのことだった。先進の民主国アメリカは明るくて当然だろうが、発展途上国ベネズエラの人たちも明るかった。ベネズエラは民主国だ。やっぱり国民を幸せにするのは本物の民主主義だ、と痛感した。彼らに較べると日本人は総体に暗く活気がなくてよどんだ感じだ。それに日本は先進国の中で断トツに自殺率が高い。

 原因はどこにあるのか。重圧感、閉塞感が漂っている日本。それが国民の心を暗くする原因に違いない。なぜそれがあるかが問題だ。経済低迷などもあろうけれど、これは日本に限ったことではない。他国にもある。日本の特徴を挙げれば「皇室タブー」が浮かぶ。皇室タブーは「言論弾圧」と「不平等感」という不幸を生み出す。これが閉塞感となり自殺多発に繋がっていくのではないか。皇室タブーの仕掛け人は天皇制の黒幕、百済系帰化人の子孫だ。つまり、国民への愛情を持たない異民族に支配されているがために生じる閉塞感だと私は思う。

 日本がアメリカやベネズエラのように明るく活き活きした国になるためには、正体を隠した異民族支配から解放されることが必要だ。だが、天皇制と政界の世襲制がそれを阻んでいる。

 国を動かす権力者は、何よりも国民は無論のこと他国民をも深く愛する人でなければならない。温情と正義、そして賢さが必要だ。そういう人は殺人など犯さない。敵対国を作らない。平和を築くだろう。

 ところが・・・。日本は・・・。

 好戦策略家だった帰化人の子孫が権力を握り、国民の不幸などものかは、自分たちにとって都合のよい国づくりを目指して暴走している。

「早く止めないと日本は駄目になる」

「いや、もう駄目になった。民主主義は死んだ。政界の世襲制が日本を駄目にしてしまったんだ」

 口を塞がれた見識者たちの密やかな呟きが広がりつつある。

(二〇一三年 十一月十九日)

                   『増補版 私の不思議な体験』著者(84歳)
                    http://bunei321.cocolog-nifty.com/
蟻 ん こ の 独 り 言        

私はアリんこです。

いつも地面ばかり這いまわっています。

ときどきこっぴどく踏みつけられて

おもわず悲鳴をあげます。

私を踏みつける人間もまた

より強い人間に踏みつけられて 泣くんですって。

人間社会には格づけがあり

権力アリ 金アリ 能力アリ 人気アリ。

アリアリづくしは 高いランクづけなんですって。

一匹のアリんこにすぎない私は

アリアリづくしになりたいとは思わないけれど

踏みつけられるのは ごめんです。

    第2部
 手づくり小冊子配布

『琅』誌掲載の「墓標は語る」と『ちば文学』掲載の「大和民族は二重の被害者だった」この二つの拙文を併せて作った小冊子を私は二〇一三年十二月から現在まで四方八方自分の力の及ぶ限り、配布や発送を続けてきた。より高い効果を期待したくて政治家、人気作家、著名人、知識人のうち理解を得られそうな人宛てにも勇気を振り絞って発送した。

 そしたら何と有難いことだろう。予想以上の反応があって「私も広めます。頑張りましょう」といった温かい励ましの言葉に包まれた。普通だったら、私などとても足元へも寄れない立場の方々からの好意溢れるお言葉に大感激。頂いた礼状は「書かれた内容どれも同感」というものが多かった。朝鮮系に支配されていることを「薄々知っていた」という鋭い方には感服。「拍手、脱帽」は簡潔ながら重みがあって忘れ難い。評論家の立場から「山本文子の個人誌にも強く心惹かれた」と新聞の文芸欄に表明下さった清水信先生には大感謝! その他の賛意を示して下さった有識者、著名人のお名前も公表したいけれど、それは絶対にできない。公表したらこの人たちが、でっち上げで名誉を棄損されるなどの被害を受けるに違いない。私の思想の影響を受けている末娘が同業者(研究者)の仲間内で天皇制に関わる発言をしたばかりに、陰湿で卑劣極まりないいじめに遭った。その経験からの断言である。こんな日本を黙って見すごす訳にはいかない。命がけで私は書く。

 共鳴部分を一つ一つ丁寧に箇条書きにして示して下さった方があって、感動したからご披露させて頂く。くどくどしい重複をご勘弁頂きたい。

「*明治維新がなかったならば、日本は戦争を起こすような国にはならなかった。

 *闘争好きの百済民族が、温厚実直な大和民族を抑えて、その能力を潰すことは、決して日本の発展には繋がらない。アジア平和のためにもならない。

 *住井すゑ談『世界に災いを及ぼすものは天皇制ですよ。日本からこれを取ってしまえば、日本という国は素晴らしい民族の国だ』『天皇制は国民をも天皇をも不幸にする』

 *日本は中国、韓国、北朝鮮との関係がうまくいっていない。円満な関係を築くためには思いきり深く問題を掘り下げて考えなければならない。

 *日本国の象徴である天皇からして百済系帰化人。日本の国は完全に百済系帰化人の支配下にあったし、いまもある。

 *百済系帰化人に最も強く支配されていた大日本帝国時代、少年少女だった世代は、日本が大和民族だけの優秀な単一民族だと嘘を教え込まれ、自尊他卑精神を植え付けられた。百済系であることを隠したいがために単一民族を強調したのではないか。

 *戦争好き氏族が復活して日本は再び戦前へ戻り始めた。

 *敗戦によってやっと手に入ったあの伸びやかさは一体どこへ消えてしまったのか。

 *八十四年生きてきた私の生涯の中で一番良かったのは、敗戦後の昭和時代であった。

 *私は血筋に貴賤があると思わない。貴賤は精神にこそあるのだ。

 *民主主義に必要なのは崇拝の対象などではない。みんながお互いを尊重しあう精神こそ必要なのである。」

 ただし、共鳴くださった人ばかりではなかった。たった一人だが、「諸悪の根源が百済系帰化人という乱暴な史観にはとても同意できません」というご意見をくださった知識人があった。「乱暴な史観」という言葉は私にカチンと来たけれども、冷静になって考えれば、同意できないが黙っているという人はごまんとあるかも知れない。率直を感謝しなければ。

(二〇一四年 二月二十日)
思 想 ス パ イ
 あの戦争のとき、共産党だけが唯一の戦争反対政党だったと聞く。彼らは天皇制反対を叫んだために、思想スパイに潜り込まれて無力化してしまったと言われている。野坂参三は共産党の最高幹部でありながら、実は裏で「世襲天皇制」を存続させる重大な役割を果たしていた。彼は天皇制側のスパイだったのである(『実録 野坂参三―共産主義運動“スパイ秘史”』近現代史研究会 編著)。その視点で見れば、連合赤軍による山岳ベース事件、浅間山荘事件なども、仲間割れのリンチ殺人に見せかけて実際は偽の同志、つまり思想スパイによる共産党潰しだったと考えられる。事件当時、警察が新聞記者の活動を抑えて真実を隠そうとしたことから、そう推察できる。その頃の日本赤軍最高指導者は重信房子だが、その父は明治維新の首謀者を出した鹿児島県(薩摩藩)出身であり、極右翼だったことも見過ごせない。

 昔の私は、共産党は怖い政党だと思い込んでいたが、いまは違う。そう思わせた奴、天皇制存続のためにスパイを放ち、皇室タブー、言論弾圧の網を全国に張り巡らせて、暗殺をも辞さない奴らこそ、恐ろしい存在であることにようやく気づいた。明治維新の真相を知ったことによって、その気づきはますます広がり、深まりつつある。気づきの一つが、政界に潜む策略である。対立政党に限らず、仲間内ですら蹴落とし合う。次期首相かと思える人が標的にされ、沈んでいく。嵌められた人としては、加藤紘一、鈴木宗男、小沢一郎の各氏の名前が浮かぶ。辻元清美氏もやられた。いつも手口が同じである。藤原氏(百済系帰化人)の手口も終始一貫して同じだった。彼らは決して平和的ではなかった。いまの政治も似ている。昨今は民間の平和運動集団の中にまでスパイが潜り込んでいる気配がある。もう謀略は沢山だ。

 これからは温厚実直な土着民族たちにこそ、底力を発揮してもらいたい。

(二〇一四年 二月二十日)
靖国参拝から見えてくるもの

 安倍晋三首相が靖国参拝を強行したため、米中韓国の強い反感を買った。かつては小泉元首相が同様に首相による参拝の慣習をつくろうとしたが、成功しなかった。首相の参拝といえば、伊勢神宮へは年頭に首相が参拝する慣習を佐藤栄作元首相(安倍首相の大叔父)がつくった。三人の名前が浮かんだときふと思った。百済系帰化人の子孫だと考えられる首相ばかりが神社への参拝にこだわりを見せたことには、何か意味がありはしないか。一つの問題を解くには、関連する事柄を引っ張り出して四方八方から観察することによって答えが引き出せる。

 安倍首相の強引さには、国内のみか国外の人々まで不安を掻き立てられている。強引と言えば、首相の外祖父である岸信介元首相も引けを取らなかった。思い出すのは一九六〇年安保闘争のとき、国会を取り巻いた群衆に対して銃口が向けられたことだ。幸い火を噴くまでには至らなかったものの、国民の命を軽んじたやり方に、なんと恐ろしい政府だろう、と思った。

 岸、佐藤兄弟の名前が出ると、私は連鎖的に一つの出来事を思い出す。それは両氏が議員を務めていた時代のことだ。国会で、明治維新の真相を明らかにしようとの議員提案がなされようとした。ところが、直ちに岸、佐藤両議員がその書類を握り潰して、問題をもみ消してしまった、という某議員による証言が残っている。これを記述した『増補版 裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』の著者鹿島曻は暗殺されたとの噂がある。

 一つのことを考え始めると、私は連鎖反応的に次々と色々なことが浮かんできて、止めようがなくなる。明治維新を起こした百済系帰化人の子孫たちの存在が私の頭の中に広がってくる。その中には百済系帰化人の組織の中心であっただろう藤原氏の姿がある。

 藤原氏の始祖・鎌足は出自不明とされていたが、実際は日本へ亡命した百済王子豊璋その人だったと関裕二氏は推理した。この推理は的中していると私は見た。歴史を辿ってみると、藤原一族の横暴ぶりは言語を絶するものだった。藤原氏の陰謀によって暗殺されたと噂される天皇や皇族の多さに驚く。明治維新も天皇殺しだったが、首謀者として長州(山口県)の伊藤博文や藤原氏の血筋である岩倉具視が強く関わっている。ともに百済系帰化人の子孫らしいが、それは偶然ではあるまい。さらに登場させたいのが、藤原氏の直系子孫である近衛文麿。近衛は自身が中国への侵略を次々と拡大させておきながら、一方でアメリカへの平和交渉に走る、という矛盾した行動を取った。

 そこに見えてくるのは、アメリカは敵に回したくないが、中国はやっつけたいという心理だ。この心理は安倍首相や岸元首相にも窺えるのだ。ここから私流の推理が生まれる。

「やっぱり、この人たちは揃って百済系帰化人の子孫のようだ。自分の先祖の祖国百済を滅ぼした唐と新羅がいまだに許せないらしい。だから中国や韓国との関係をこじらせることばかりしでかすのだろう。百済系の子孫であることをひた隠しにし、事実を隠ぺいするから、中国、韓国との間に歴史認識の違いが生じてしまうのだ」

 次には、百済系帰化人の子孫と思われる首相に限って、神社、神宮への参拝にこだわるのはなぜかを考えてみよう。神社といえば神道が思い浮かぶ。知多にある二つの朝鮮人集落は全戸が神道に属している、と知多の人から聞いたが、私の友人にも親族にも神道に所属する家がある。中には自分は天皇と同じ血筋だという誇りを持つ家も複数あった。神道に属する某家の家系図を見せてもらったところ、始祖は天照大神であり、先祖はその庶流子孫になっていた。一体天照大神とはどういう神か、人か。私は調べてみた。『大霊界』(隈本確)をはじめあれこれの書物をひもどいてみたけれども、分からなかった。実在した神とか人である証拠を見つけることはできなかった。

 百済系帰化人の子孫だと思われる首相たちが神社や神宮にこれほどまでこだわる理由を、私は次のように推理する。

 天皇制は、百済系帰化人が天下を取り続けるための手段であろう。神道はそのための重要な組織であり、神社や神宮は武器だと考えられる。「露知らず初詣する大和人ら 百済人太らせてめでたき」ということだ。

「靖国は宗教(神社)から切り離すべきだ」との声は敗戦以来あちこちの人たちが唱え続けてきた。それが無視されている理由はこれだった、と私はいま初めて気がついた。天皇制を続けたくてたまらないがために、靖国神社に抱きついて離れまいとするのだ。この人たちの靖国をはじめ神社へのこだわりは考えてみると恐ろしい。他国を怒らせて問題がこじれるばかりだ。このように中国、韓国との関係をこじらせているのは、明らかに彼ら天皇制支持者たちである。首相になった途端に「日本は天皇を中心とする神の国だ」と言い放った森喜朗元首相もその仲間であろう。

(二〇一四年 二月二十一日)

国家公務員採用方式への疑問

 国家公務員試験はずっと昔、私の兄が受験したし、近年では末娘が受けた。どちらも合格したものの、別の道へ進んだ。この時に得た知識から、私は国家公務員採用方式に大きな疑問を抱くようになった。

 ★ 採用人数の二倍ほどが合格になる。
 ★ 合格すれば、内定を取るための官庁訪問は必ずしもその年でなくても、訪問資格は三年間保たれる。
 ★ 宮内庁だけは試験に無関係の世襲制採用である。

 なぜ官庁訪問をその年だけに限らないのか。なぜ二倍もの合格者を出すのか。学力一本でなく適性を考えて幅を持たせたいのなら、合格者を決める前の段階に細かい適性検査を実施すれば済むものを。これははっきり言って、能力の低い合格者に対する恩恵ではないか。つまり能力はいまいちの中に採用側が求めたい種類の人物があるということか。ここでは採用にコネの有無が大きくものを言うようだ。コネの必要性は耳にタコができるくらいにあちこちから聞かされた。

 確かなコネのある人は三年間悠然と構えて、入りたい省庁の枠が空くのを待てばよい。三年の猶予は明らかにコネ保持者への特典だ。二倍合格はコネのある低成績合格者への恩典だ。彼らのライバルであるところの、コネを持たない好成績合格者を蹴落とすにはもってこいの方式だと私は思う。自慢のつもりで書くのではないが、合格者中の上位一割以内という好成績で合格した末娘が、コネがないと採用の道は遠いと知った時、私はいっぺんに国家公務員職が嫌いになってしまった。コネの一例として通産省は本籍が朝鮮人集落出身でないと出世コースに乗れないと聞く(『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』THINKER)。

 また、これは勲三等を受賞したという人の家で賞状の入った額が飾られた部屋で、家の人からはっきりと聞いたことだが、宮内庁だけは国家公務員試験と無関係の別枠採用だという。

「知人に宮内庁に勤めている人があるが、宮内庁は世襲制だから親の代からの宮内庁勤務だった」

 なんとも驚くべき証言である。それが事実ならば、これまでくどくどと記述してきた日本の天皇制の黒幕が百済系帰化人の子孫達であろう、という私の推理が確かな現実味を帯びてくるではないか。

 さらにその家人は教えてくれた。

「日本の大学教授には、韓国や朝鮮系の血筋の人がかなりいますよ」

 恐らく日本名を名乗っていたりするであろう。なんのことはない、日本の上層はやっぱり朝鮮系が主流になってしまっているのか。能力ゆえなら問題なく結構なことだが、血筋尊重のコネの結果であったならば、許せないことである。日本の国が腐りきってしまう。朝鮮系血筋尊重思想のもとは天皇制にある。その天皇制を守り抜く手段の一つとして宮内庁職員が天皇制同様の世襲制になったのだと考えられる。天皇が大和民族ではなかった、朝鮮の百済系血筋でいらっしゃった、ということの意味はとてつもなく重くて大きいのである。

 とは言っても、悪いのは天皇ではないし、一般の百済系帰化人でもない。民意を踏みにじり、ごり押しに天皇制を継続させようと謀る黒幕が問題なのである。鍵は明治維新にある。維新には隠された恐ろしい秘密があった。隠された部分には悪の芽が潜んでいる。こんな日本でよいのか。覆いを跳ねのけて、遅まきながら明治維新の真相を国民の前にさらけ出すべきだ。そして、ことの是非について国民の審判を仰ぐべきであろう。

 最近、気になっていることだが、平成に入ってからメディア関係の質が目に見えて落ちてきた。テレビ放映が始まった昭和三十年代は、放映時間の何倍もの時間をかけて作成されたであろう充実した番組ばかりだった。ところが昨今は即席の粗末なものが目につく。スポーツ関係の解説も時に安易さが感じられる。日本人は怠惰になったのか。それとも、あの戦争で選り抜きの俊才を沢山殺してしまったつけが回ってきたのだろうか。

 上に立つ人、国を動かす人は正直でしかもうんと賢くなければダメだ、とつくづく思う。

(二〇一四年 二月二十一日)
       ――『ちば文学』(編集 ちば文学会・発行 文化芸術村の会)

          第11号に掲載したものを転載――
恐ろしかった大日本帝国

天皇を元首にするって?

再び大日本帝国をつくろうというのか

私は嫌だ

あんな恐ろしい国にはもう決して住みたくない

女学生だった私は工場で働いた

食べる物なくて お腹ぺこぺこ

一年三百六十五日 一日も休みなく

工場で 学校で 家で

働いて 働いて 働き通した

神である天皇のために

死ね 死ね と言われて

沢山 沢山の人が死んでいった

忠君愛国 滅私奉公を求める大日本帝国には

どこを探しても 自分の幸せなど見つからなかった

あるのは不幸ばかり

不幸なのは大日本帝国国民だけではなかった

支那大陸 朝鮮半島 南方の島々の人たち

日本の敵国となった五十一か国の人たち

合わせて五千万が死んだ

空襲警報が昼間二回 夜間二回鳴り響き

防空壕へ入る気力もなくなった時

やっと戦争が終わった

占領した日本を見て アメリカの偉い人が驚きの声を挙げた

「日本人は働き過ぎだ 体が壊れる もっと休みなさい」

それを新聞で読んで 私は思わず涙をこぼした

なんと優しくて温かい言葉だろう

私の国 大日本帝国の偉い人たちは

「死ね 死ね」とは言ったけれど

「体が壊れる」なんて「休め」なんて

一度も言ってはくれなかった

私はもうあんな冷酷な大日本帝国の国民にはなりたくない

私は確かにこの目で見てきた

戦争好き大日本帝国の悪業の数々を

なのに 大日本帝国は反省しなかった

反省がない者の罪は 永久に消えない

あれほど苦しめた国民に対して

ただの一言も詫びなかった

詫びない者は 再び同じ過ちを繰り返す

日本の 戦争好き為政者を

反省させない限り 詫びさせない限り

日本国民は 再び虐げられ

アジアの平和は 再び壊されるだろう

世界一 平和な日本を

実直に生きている人は みんな仲間だ

民族を問わず 同じ日本人だ

手を携えて 民族差別のない日本を

つくっていこう

戦った時代への反省を 忘れずに

これからは

戦わない 争わない

日本を つくっていこう

許し合い 愛し合い

世界一 平和な日本を

強い国ではなくて

世界から親しまれる

温かくて 優しい

日本を つくっていこう

(二〇一四年 二月二十七日)
        本誌は次のURLからダウンロードできます。
        お気持ちのある方はご自由に印刷、配布ください。
        但し、文字の書き換えは一切お断りします。
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コメント

安倍は江戸時代からの
長州のペクチョン部落の家系でしょ。
顔も完全にペクチョンの仮面と同じ。
あれだけのペクチョン顔もそういないよ。

百済人っていうのは藤原氏。
これ読むとおもしろいかもよ。

天智と天武-新説・日本書紀- 7 (ビッグコミックス)
amazonはリンクが長いから・・
最終11巻の紹介。
http://sicambre.at.webry.info/201609/article_2.html
[2016/12/20 18:16] URL | クールCyrusII #- [ 編集 ]

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